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三宅島の火山噴火

三宅島は伊豆大島の南57kmに位置しており、東京都に属する島です。海底火山から誕生した直径8kmの小さな島で、平成24年4月の人口は約2700人。約20〜50年に1度のペースで噴火を繰り返しており、最近では1983年、2000年に起こった噴火で大きな被害を受けました。噴火をしていた期間は全島から避難指示が出されていましたが、現在では一部を除いて解除されたため住民も戻り、現在島の全域は富士箱根伊豆国立公園に指定されています。



1983年の噴火

1983年10月3日、三宅島火山は西南山腹の割れ目から噴火を起こし、火口からは100m以上の高さまで溶岩が噴き上がりました。三宅島の溶岩は、粘性が少ないため流れやすく、流れ出た溶岩は、噴火の2時間半後には海へ到達しています。この溶岩流で阿古地区では400棟以上の住宅が焼失・埋没しました。海に達した溶岩は、激しい水蒸気爆発をおこし、さらに群発地震も相次いで最大M6.5の地震を記録しました。

当時の三宅島では観測所の配備が十分でなかったこともあって、突然の噴火になりましたが、三宅村の迅速な初期対応もあって人的被害はゼロに収まりました。噴火の1ヵ月半前に全島での防災訓練をしていたことが役立ったとの説もあります。人的被害はなかったものの、建物や農作物などへの被害は甚大で、被害総額は217億円にのぼりました。


2000年の噴火

2000年の噴火 気象庁HPより 2000年6月26日、18:30頃から始まった群発地震により、気象庁は19:33緊急火山情報を発令。住民が島の北部に避難した27日の9:00頃、島の西約1kmの地点で海底火山が噴火をしました。その後7月4日火山活動が活性化するまで鎮静化していましたが、7月8日18:43に雄山で水蒸気爆発が発生。山頂部が直径約800mにわたって陥没、カルデラを形成しました。その後も相次ぐ水蒸気爆発でカルデラは成長していき、8月10日6:30頃には上空6,000mに達する大きな噴火がおこり、18日の上空15,000mに達する大噴火では、火山弾が住宅地にまで到達しました。29日には火砕流が起こり、数人が巻き込まれましたが低温だったために命に別状はありませんでした。

1983年の噴火とは異なり、溶岩の流出などはありませんでしたが、度重なる水蒸気爆発と火砕流や泥流の発生に、9月1日に全島避難が決定。当時4000人余りいた島民は、9月4日までに全員が島外に避難しました。その後、2005年2月、4年5ヵ月後に避難指示が解除されましたが、生活の拠点を島外に置いたままの人も多く、現在の人口は2700人ほどになっています。



現在の三宅島

三宅島の噴火は、世界でもあまり例がないほど大量の火山ガスを放出しました。この火山ガスの主成分となっている二酸化硫黄の放出量は2000年の噴火直後で1日に約4万トン、2002年頃からは1日数千トンにまで減少しましたが、その放出は現在でも続いています。ちなみに、日本全体で人為的に発生する二酸化硫黄の量は1日3,000トン。桜島火山による二酸化硫黄の放出が1日1,000〜2,000トンといいますから、その量がいかに桁違いかわかりますよね。

そのため、現在でも三宅島では火山ガスと共に生活することを余儀なくされており、島民はもちろん観光客もガスマスクの常時携帯が義務付けられています。また、島のいたるところに高濃度の火山ガスによる立ち入り禁止区域があり、車での通行のみ可能となっています。また、火山ガス注意報・警報は防災無線を通して放送され、その濃度によってレベル分けがされています。

農地の復旧作業 東京都総務局HPより 島の森林面積の6割にあたる2,500haが火山ガスによる被害を受けており、山の中腹から山頂にかけてはほとんどの樹木が立ち枯れてしまいました。現在でも山の上半分は緑の全くない白と茶色のみの景観で火山ガスの猛威を感じさせます。現在では東京都や国の主導で山林や農地の復旧が進められています。

2004年に避難指示が解除された後、島民は徐々に島に戻り、2005年5月からは観光客の受け入れも再開されました。とはいえ、ガスマスクの携帯を義務付けられる状態なので一般観光客はまだ多いとはいえませんが、数年間島を閉鎖していたことから魚が豊富だということで釣り客には人気が高く、さまざまな生物相を見ることができるためスキューバダイビングの名所としても知られています。また、漁業面での復活も目覚ましく、島民の生活を支える基盤となっています。